ガラス張りは建て主の希望だったが、ご主人に言わせれば、多少ニュアンスが違う。「たしかに明るい階段がいいとか、庭が見えるほうがいいとは言った。しかし、総ガラス張りにしてほしいと言ったわけではない」致命的だったのは、いざというときのための手すりがなかったことだった。デザイン的には、不粋な手すりなどないほうがすっきりして美しい。しかし、よろけたときにつかまるところがまったくないようでは、ひじょうに危ない。
立飛の賃貸・部屋探し
京王永山の賃貸・部屋探し
武蔵野台の賃貸・部屋探し
代田橋の賃貸・部屋探し
高井戸の賃貸・部屋探し
見た目を重視した結果、安全性や利便性が犠牲になるというのは、近代デザインの宿命ではすまされない。結局、この1件は、私たち建築家が間に入り、双方痛み分けという形で決着した。互いに裁判で徹底的に争おうとすればできたわけだが、それでは時間がかかりすぎる。3年も5年も、保険金の支払いを待たなければならないことになってしまう。建て主夫妻としては、裁判が長期化するよりは、建築家と和解して、その家をきちんと改善してもらうほうを選んだわけである。この事件を思い出すたびに、私は痛感する。デザインを優先した建築家も悪かったが、建て主も悪かった。こういうことを言うのは酷かもしれないが、家が完成した後、その家でその家族がどう住むかを予想できるのは、当の建て主一家だけである。この階段の例のように、自分が足元も不如意なほど泥酔した状態で昇り降りすることがあるのか、いずれ孫でもできて幼児がかけ上がったりかけ降りたりするのか、奥さんが妊娠したり、大きな荷物を持って昇り降りすることがあるのか。そういう点まで予測できるのは、そこに住む本人たちだけなのだ。